「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜 日本遺産の活用を目指す岐阜市
「信長のまち岐阜」のブランドイメージをつくる
信長バス 写真提供:岐阜市
4次発掘調査が始まった平成19年当時、毎年10月の「ぎふ信長まつり」などは行われていたが、市民にとって信長は愛知から来た「よその人」というイメージが強く、岐阜が「信長のまち」という認識が広まっているとは言えなかった。しかし発掘調査が進んで居館の姿が少しずつ明らかになり、岐阜での「おもてなし」の説明が進むにつれ、市だけでなく、市民や民間事業者の間でも信長を生かした取り組みが生まれはじめた。
例えばぎふまちづくりセンター(平成27年3月に閉鎖)では、社会教育課や岐阜市歴史博物館の調査をもとに、地元長良川温泉の旅館・ホテルとともに、信長料理を再現する取り組みを行った。
他にも、信長居館跡を含んだ一帯にある岐阜公園では、ボランティアの武将隊や、信長・岐阜城をモチーフとしたゆるキャラが観光客らをもてなしている。JR岐阜駅前には市民の寄付により「黄金の織田信長公像」が建てられたほか、岐阜バスにより、車体に信長のイラストを大きくあしらった「信長バス」も運行を始めた。
JR岐阜駅北口駅前広場の黄金の織田信長公像
「おもてなしが息づく」として日本遺産に認定され、実際に市外からお客さんが訪れたときのもてなしの準備が徐々に整ってきた。
高橋:「信長のまちだということが10年前より浸透してきたと思います」
こうした中で日本遺産の制度が発表された。ストーリーを国が認めて世界に発信できること、そして補助制度で魅力のブラッシュアップができることは、認定の大きなメリットだった。申請は商工観光部、企画部とも相談して進めた。
日本遺産について「文化財版のクールジャパンとか、文化財を活用して観光振興を行い地域活性化に結びつけるというのは、今までの文化庁の考え方とは違うと感じました。信長公を岐阜市のブランドとしていきたい立場から、日本遺産認定はブランド化にとって大きな前進だと思い、申請にあたっては一緒になって中身を練っていきました」と話すのは、岐阜市企画部政策調整課の小森康博さんだ。
市企画部では「信長公450プロジェクト」を進めている。信長が岐阜城に入城してから450年の節目となる2017年を機にさまざまな取り組みを進め、信長のまちとしてのブランド化を目指すものだ。こうした節目が控えていることも、日本遺産認定へと加速する一因となったようだ。
どういうものが認定されるのか読めない部分があったというが、今年4月、岐阜市のストーリーは、日本遺産第1弾の18件に選ばれた。高橋さんは「これまでの積み重ねが、日本遺産の制度にフィットした」と考えている。
昭和59年(1984)に始まった信長居館の第1次調査から携わる内堀さんも、「歴史を理解するには、ストーリーという形がいちばん人の頭に入りやすいと思います。文化庁でも、そういった考えのもとで日本遺産の制度を設けたのではないでしょうか」と話す。
しかし市民にはまだ、日本遺産という制度自体があまり知られていないのが現状のようだ。
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