「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜 日本遺産の活用を目指す岐阜市
岐阜公園正門と山上の岐阜城
今年4月24日、文化庁が「日本遺産」に18件を認定したと発表した。
日本遺産とは文化庁が今年設けた新しい制度で、「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」に認定するとともに、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内外に戦略的に発信することにより、地域の活性化を図る」とされている。
ストーリーは単に地域の歴史や文化財の価値を解説するだけではなく、歴史的経緯や地域の風土に根ざした伝承、風習等を踏まえたものが認定対象となっており、地域づくりの将来像や、地域活性化推進のための体制が整備されていることが必要とされている。 単一の市町村によるものと、複数の市町村にまたがるものの2種類がある。
この18件に選ばれたのが、岐阜市の「「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜」だ。岐阜市のストーリーは、際立って緻密に構成されている。それは日本遺産の制度が設けられるずっと前から、調査結果などをもとにストーリーを少しずつ描き出し続けてきたこと、また地域資源として織田信長を市民に発信し続けてきたことによるものだ。岐阜市のこれまでとこれからの取り組みについて話を伺った。
徐々に明らかになった意外なストーリー
信長が築いたとされる庭園の復元図 画像提供:岐阜市教育委員会
織田信長は永禄10年(1567)に岐阜城に入城したとされる。この地を岐阜と名付け、42歳となる天正3年(1575)まで本拠地としていた。この時期から「天下布武」を掲げはじめた信長は、岐阜を拠点に、姉川や長篠をはじめ各地へ戦いに出ていた。信長の、武君で冷徹非道な改革者というイメージとは違う印象を与えるのが、「『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜」のストーリーだ。
近年の発掘調査により、信長は金華山の麓に、巨大庭園を持つ迎賓館としての居館を築いたことがわかってきた。当時の文献によれば、信長はポルトガルの宣教師フロイスをこの居館に招き、自ら館内を案内した。山頂の城にも招き、絶景を見せた。食事を振る舞うときには信長自らが膳を運ぶこともあった。
ほかにも武田信玄の使者、秋山伯耆守を鵜飼観覧に招くなど、少なくとも5人の有力者を岐阜でもてなした記録が残っている。こうして信長が形作った城・町・川文化が現在の岐阜のまちに息づいている、というのが岐阜市のストーリーの結びだ。
長良川鵜飼。武田信玄の使者、秋山伯耆守を鵜飼観覧に招いたとされる
「岐阜市の観光は信長がやっていたことが受け継がれてきた結果であり、今も鵜飼と岐阜城が二大観光資源です。山麓の居館は今ではわからなくなっているので調査していますが、このように現在まで続いていることが大切だと気付きました」と、岐阜市教育委員会社会教育課の高橋方紀さんは話す。
岐阜市の日本遺産のストーリー
日本遺産のストーリー構築については「当初から日本遺産を目指してやっていたわけではない」という。岐阜市では平成19年(2007)に、山麓の信長居館跡発掘の4次調査が始まり、信長を生かしたまちづくりが本格的に始まった。
高橋:「ストーリーの骨子は、平成21年ごろにすでにできていました。発掘調査を進める中で、館が迎賓館のような場所であることが徐々にわかってきました。そういう目で改めて岐阜を訪れた人たちの記録を見直してみると、信長は意外とおもてなしをしているのではないかと気づいたのです」
「おもてなし」という言葉は高橋さんや、同市教育委員会社会教育課長の内堀信雄さんらが話す中で、自然に出てきたものだという。
そして講演や執筆の機会を捉え、最新の発掘調査成果を交えて市民に発信しながら、ストーリーを練り上げていった。例えば平成22年8月には鵜飼観覧船事務所の企画で、鵜飼が始まる前に観覧船の一艘で、信長の鵜飼でのおもてなしについて説明を行っている。
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