観光と語り部 遠野市を事例に
観光と結びついた語り部誕生
「民話のふるさと」として知られる岩手県遠野市は、語り部が観光分野における重要な人的資源となっている。「語り部1000人プロジェクト」の認定者も随時加わり、遠野の語り部は新たな転換期を迎えている。本稿では時系列に遠野の観光と語り部のつながりに焦点を当て、21世紀型語り部のあり方について考察する。
1960年代の調査によれば、当時、100話以上のレパートリーを持つ伝承の語り手が全国の村々に300人以上いたという。遠野市が総合発展計画として「民話のふるさと遠野」を打ち出したのは65年頃。遠野の語り部が脚光を浴び始めたのは、『遠野物語』発刊60周年を迎えた70年の岩手国体にさかのぼる。メディア効果もあり、遠野の語り部の認知度が全国的に高まる。観光と結びついた語り部の草分け的存在としては、遠野の語り部1号と称され、佐々木喜善と親戚の北川ミユキ(1889~1982)と、遠野昔語り五姉妹の長女で、遠野市民センターのこけら落しで昔話を披露した鈴木サツ(1911~96)が挙げられる。前者は自宅で、後者は観光施設や民宿で観光客を相手に昔話を語っていた。特に鈴木はメディアへの出演も多く、全国に赴いた語り部でもある。なお、当時の語り部たちの多くは、明治、大正生まれであり、皆、純粋に口承で得た昔話の語り手だった。
80年に遠野市立博物館、81年にたかむろ水光園、84年に伝承園、86年にとおの昔話村と市の観光施設がオープンする。これにより語り部の活躍の場が確保されていった。
「語り部教室」から生まれた語り部
「遠野昔話語り部の会」メンバー
遠野には「語り部教室」から生まれた語り部たちがいる。「語り部教室」は行政・民間企業・遠野物語研究所(注1)の参画により1996年に開講された市民講座である。「語り部教室」は通常コース(2時間×年12回 1. 講義を聞く 2. 観光客と共に語り部の話を聞く 3. 語り部と話し合う 4. 受講者が語る)と行事参加コース(「昔話祭り」などの行事に参加し実践を積む)からなる。
この「語り部教室」に4年間通った受講生有志が2000年に「とおの昔話 語り部 いろり火の会」(以下「いろり火の会」)を立ち上げる。「いろり火の会」は学びの成果が発表できる場所を求めて工藤さのみ(当時会長)が中心となり奔走する。最初の活動場所は駅前の空き店舗だった。地元商工会との交渉の末、中心市街地活性事業の一環として許可をもらい、2000年2月~01年3月まで活動した。次に許可を得られた場所はJR遠野駅近くの物産センター内だった。01年5月~12年3月までセンター内の一角を市観光課から無償で提供してもらった。ここでメンバーは毎回2名ずつ常駐し、10時~16時までボランティアで昔話を語った。その他に、ホテルあえりあ「語り部ホール」・伝承園・ケアホーム・教育機関など活動の場を広げていく。工藤によれば、グループの活動を認めてもらう上で、大学ノート46冊、延べ61,995名が感想を残す「お客様ノート」と、「会員ノート」が非常に有効であったという。この間も会のメンバーたちは、遠野物語研究所と関わり合いながら、さらなる技術面・学術面の向上を図っていく。
なお、当グループは2014年4月に、個々に遠野アドホック(株)と契約し活動していた、旧遠野物語物産館内「昔話語り部館」のベテラン語り部たち(注2)と統合する。現在は69~82歳の総勢16名で、「遠野昔話語り部の会」として活動している。今年、「語り部1000人プロジェクト」から「昔話」の認定者2名が加わった。旧「いろり火の会」メンバーによれば、10時~16時まで常駐しながらのボランティア経験と遠野物語研究所のさまざまな講座が語り部としての大きな財産となっているという。メンバーは語り部の講師を務めるほか、プロの語り部として県外のみならず海外にまで足を運んでいる。
(注1)1995年設立、2014年解散。遠野常民大学を継承。「遠野物語ゼミナール」「遠野物語教室」「語り部教室」「遠野学会」を4本柱として事業を展開。解散理由は会員の高齢化。現在は遠野文化研究センターが事業の一部を引き継ぐ。
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