平成の大合併における観光地の変化

井上晶子立教大学観光研究所客員研究員・杏林大學非常勤講師

2012.06.16

 1999年に始まる平成の合併は、2010年3月末をもって一応の区切りとなり、3229を数えた市町村数は1727と大幅に減少した。

 合併により地方分権の受け皿となり得る足腰の強い自治体を目指した背景には、国をはじめ各自治体の厳しい財政状況や、急速に進む少子高齢化による地域の活力喪失など、将来への不安があった。そして、地域の自立を目指し、地域の活性化の手段として合併が進められたこの10年間は、同時に、2003年の「観光立国」宣言を皮切りに、同じく、地域再生・活性化手段としての「観光」が注目され、国を挙げての観光政策が進められてきた10年間でもある。

 初期の頃より指摘された合併のメリットを観光の面からとらえると、(1)観光資源が多様化し広域観光が可能になる、(2)重複するものを省き主要な資源への重点投資が可能になる、(3)地域の拡大や新名称、新規事業などでイメージアップが図れることであり、合併効果として観光広域化が謳われ、合併後の政策として観光が重視されたのは当然の成り行きといえる。

 一方、デメリットとしては、(1)中心地ばかりが重視され周辺地域が取り残される、(2)地域の特性や歴史が失われ住民のコミュニティ活動が萎える、が挙げられるが、果たして観光地としての評価を受けていた自治体の合併後の姿はいかなるものか。

 財政破綻寸前で合併の選択を余儀なくされた旧K村は、制度上は対等の形をとった新設合併であったが、実質は吸収合併に近い。旧K村の職員が少なくなった新市の職員に、旧K村への愛着が薄いのは当然であろう。村直営のホテル、レストランは廃止され、地ビール、チーズやハムの製造等、村の誇りであり高い評価を受けた観光関連事業は、採算性の面から外部委託化された。

 先駆的な観光資源を持ち、住民主体の観光のまちづくりとして注目されてきた旧A町は、観光地としての誇りを持ちながらも、厳しい財政状況や地域の過疎化から合併の道を選ばざるを得なかったという。財力を持つ市に編入された合併ではあったが、旧A町の「観光の力」を重視した強力な新市行政の主導によって、観光資源の整備、重要伝統的建造物郡保存地区選定など、長年の懸案事項が短期間に実現した。

 豊かな観光資源を持ちながらもそれらを活かし切れず観光地としての発展が危惧されていた旧T町は、周辺町村との新設合併により新しい道が開けたといえる。内部には多くの課題が残されているが、新市と、周辺市・町との広域観光を進めるに当たっての中心的なエリアとなっている。

 既存観光地の合併に至るまでの状況や経緯によって、合併後の観光地の姿はさまざまである。

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